死は目前に迫っている。

だが、誰にも見えない。

見えるのは悠久とも思える退屈な時間だけ。

「まだ若い、死を語るのは死ぬときでいい」

誰もがそう思っている。

そして、死を目前にした時、

死神に待ってくれという。

待ってくれるはずもないのに。

死神は必ず迎えに来る。

 

英雄たちは、歴史の中で、

すばらしい業績を残しながら、死んでしまった。

「ああすればよかった」とつぶやきながら、

功名と悪名を残して死んでいった。

多くは後世の評価であって、

真実ではない。

歴史は作られる。

利用されるといったほうがいいかもしれない。

後世の人たちの語る材料になるだけだ。

それでよしと思えば、それでよい。

しかし、どう生きたとしても

死は、すべての感情を奪い去ってしまう。

 

歴史に取り上げて数えられることのない人たちも多く死んでいった。

文字通り数えられないほどの人々が死んで行った。

ある時、友人が死んだ。

しばらくの間は、生きている友人の間で、さも、惜しげに語られた。

またある時、年老いた親戚のものが死んだ。

しばらくの間は、生きている親戚の間で、さも、憎憎しげに語られた。

無念も慙愧も、屈辱も悲しみもそれぞれにありながら、

歴史には取り上げられることもなく死んでいった。

 

悠久の歴史の中で、誰もみな小さな星たちのように、点滅を繰り返している。

われわれも同じだ。今生きて輝こうとも、消滅しようとも

小さな数え切れない死のひとつにすぎない。

名を残したとしても、それは真実ではない。

ならば、己の生をどうすればいいのか、

あるがまま生きて、あるがまま死んでいくほかはないのだろうか。

wildsum について

I am a Japanese language teacher. I like to soccer and cooking,walking.
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